その他諸々

その他の走り書き。

バラトロ中に年が明ける。親戚、友人、犬に会う。

年が明けた。2026年!
年末は妻が休みに入ってからずっと一緒にゴロゴロしつつ、最近まともにゆっくり出来ていなかった妻が極力何もせずにいられるように尽くしまくっていた。
同時にここ数週間は「バラトロ」というゲームに夫婦でハマり、ずっとそれを二人でプレイしていた。
もちろんちょろちょろと出かけたりもした。
一緒においしいパスタのお店にいって豪勢にご飯を食べたり、良いパンをたくさん買って帰ったりするなどゴキゲンで過ごしていた。
晦日は家で二人でゆっくり過ごしていたのだけれど、TVを付ける習慣がなかったばっかりに、気付けば年を越しているというさっぱりとした年越しになってしまった。
いかんせん先述したバラトロが面白すぎて、ふたりで頭を悩ませながらプレイに夢中になっていたせいでもある。おそるべしバラトロ。
年を越したあとは妻の実家に挨拶にしに神戸まで出た。
妻の親戚の集まりにも顔を出し、あまりにその親戚の多さにビビったりするなどした。
映画『サマーウォーズ』を彷彿とするくらいの人数で、もう後半ではだれがだれの息子でだれがその娘で……という関係図が頭の中で整理できなくなってしまったので、もう家系図とか気にせず挨拶をしまくっていた。
私の実家方面ではあまり親戚関係が多くないため、凄く新鮮な気持ちでわいわいとした空間を過ごすことになった。
神戸でも妻といっしょに買い物をしたり喫茶店をめぐったりした。
神戸は京都よりも観光客が少なく、どの店も地元の人間で賑わっているのがなんだか素敵だった。
途中で大きな本屋に入り、妻が私にゴンブリッチの『美術の物語』をプレゼントしてくれた。
前々からずっと読みたい/読まねばと思っていながらも、そのデカさ、分厚さ、価格の高さから見送り続けてきた本だったので、とっても嬉しい。今年の読書一冊目はこの本になる。
京都にいる(先日入籍の証人を任された)友人とも遊ぶ。
ゲームをしたり銭湯にいったりご飯を食べたりひたすらしゃべったりする。
二人の結婚指輪は、私達の同期でジュエリー作家をやっているSさんが手がけたものだった。とてもかわいい指輪で、そのデザインのコンセプトも素敵なものだった。
やっぱり好きな人と一緒の何かを互いにひっそり身につけ続けるってウキウキしていいよね、と思う。
そしてそんな年末年始も終わり、妻の仕事がまた始まる。
今年初めてのいってらっしゃいを玄関でして、私も散歩の支度をする。
大学時代の友人が犬の散歩に誘ってくれたので、わたしはウキウキで散歩に出る。
今年の初散歩は黒柴のおこめちゃんと一緒。素敵な幕開けである。
友人のTと会うのも結構久々だったので、近況やらなんやらをのんびり話ながら歩く。
なんだかんだで2時間弱くらい歩き、解散する。
私は一旦家に寄って、分厚くてデカい『美術の物語』を鞄に詰めて喫茶店まで向かう。
茶店で開くにはちょっとデカすぎたかなと後悔しながらも読み進める。
今年もいっぱい本を読みます。
そしてできる限りおいしい物を作って、家に綺麗にして、洗い物をパパッとこなし、妻が家ではゆっくりのんびり過ごせる日々を守っていきたい。
どんどんいくぜ!!!(トゥクトゥクがさらに加速する)

友人夫婦の証人になる。孤独は燃費が悪い。

アーマードコア6をクリアしたので、最近は『Expendition33』をプレイしている。
去年はペルソナシリーズにどっぷりハマっていたので、凝ったターン制バトルが楽しくて仕方が無い。
ゲームをする習慣がすこし薄れてきていた中、AC6がゲーム熱を再燃させてくれたおかげで最近は午前中はゲームをしていることが多い。昼間に家事を一通り済ませて、午後になったら散歩がてら喫茶店に行く。このサイクルで動けたら超良い日。天気が悪かったり、具合が悪かったりするとこのサイクルに上手く乗れず、日光を浴び損ねてなんだかどんよりと一日を過ごすことになったりする。我ながら頼りない身体である。
今週は週始まりのあたりはあまり体調がよくなくて、頭痛にくるしみながらすごしていたのだけれど、ここんところ数日は調子がまたもどってきた。
AC6づくしで読めていなかった本もまた読み始めた。
『芸術とその対象』という芸術論の本もやっと読み切ることができた。
ここ最近読んだ本の中ではぶっちぎりに読むのが大変だった。バッキバキにロジック詰めで書かれている本は読むのにむちゃくちゃ体力を使う。勘弁して欲しい。
つぎは『芸術の言語』を読む。
気持ち的にはこっちの方が本命なので、読むのが楽しみだ。
秋頃はひたすらにSFばかりを読んでいたというのに、冬に入ってからは彫刻論や芸術論ばかり読んでいる。
ここ1、2年で読んでいる本は大体SF、芸術批評、デジタルゲーム評、他者論、コミュニケーション論あたりばかりを読んでいる。
そろそろ何も考えずに読める小説も読みたいところだけれど、批評や芸術論は流れに乗った状態で読み進めた方が気持ちよく理解していける実感があるので、しばらくは小説は読めなさそうな気がする。
そして同時に夏以降全然映画を見に行けていない事を思い出した。
一時期は映画館にこもって3本連続視聴をしたりしていたのに、めっきり行かなくなってしまった。
観たい映画が何本も上映しているタイミングって貴重だなとも思う。
ただ映画館に行けていないだけではなく、自宅でもめっきり映画を観なくなってしまった。
せっかくサブスクに入りまくっているのだからまた映画を観まくる時期が来たらいいなと思う。
いろいろな娯楽にハマり続けているけれど、少なくともいまは本が一番楽しい時期である。

私の趣味はつくづくインドアかつ一人で楽しむものが多い為、うっかりしていると本当に妻以外と誰も会話する事なく一週間過ごしそうになってしまう。
ただ毎回書いているように、妻は私が読んでいる本や見た映画、プレイしているゲームについていつも尋ねてくれるので、おかげで私の孤独な没頭がコミュニケーションに昇華される。妻、いつも楽しそうに聞いてくれてありがとう。

また、先日友人が結婚することになり、その証人欄に署名をすることになった。
二人とも大学時代からの友人で、付き合い始める以前から互いに交友があったので、その二人が結婚するんだとおもうとなんだか感慨深い。
私と妻が彼らの証人となった。
ちなみにその友人こそが私にAC6を貸してくれた本人である。
署名をしながらゲームについての話をしていると段々と乗ってきて、その加速を察知した彼女のほうが「またはじまっちゃったよ」と笑う。
私達は会うたび、ゲームやアニメや音楽の話になるととにかく長い。
まあどうせまた近いうちに会うでしょうということで、話を切り上げ彼らを見送った。
あの二人は結婚することで何かが変わるのだろうか。
私と妻はびっくりするくらい何も変わらず過ごしているので、彼らもそんなに変わらないんじゃないかなと勝手に想像してみたりする。
昔は「結婚すると一人の時間が無くなったり、満たされてしまうことで孤独な活力という物が枯渇するのでは?」なんてませたことを考えたりしたこともあったけれど、なんてことは無かった。
信仰していた“孤独な活力”なんてものは思っていたよりずっと燃費の悪い粗悪な燃料でしかなく、満たされている活力の方が私をずっと遠くへ連れて行ってくれるということに気づけたのはここ2、3年の話である。

ガチモンの孤独な活力なんてものは、ほんまに他に何も活力がない時の死に際の予備電源程度のものであり、それで恒久的に何かを動かしたり回していくなんて無理な話なのだと思う。

私は妻と友人と楽しく遊び続ける。
どこまでも走るぜ(トゥクトゥクの発進音)

一週間アーマードコア6しかやっていない私。一週間ずっとアーマードコアの話を聞かされる可哀想な妻。

この一週間、ひたすら『アーマードコア6』をやっていた。
面白すぎた。喫茶店にいく習慣も途切れるくらいにズブズブにアーマードコアをしていた。
1年以上前に友人から「ほんとうにいつでもいいから、いつかプレイしてくれ」と変な頼み文句で貸して貰ったゲームだ。
制作会社のフロムソフトウェアのゲームは高難易度かつ、考察の余地が多いストーリーテリングが有名なため、なんだか触り始めるのには中々ハードルが高かったりしたのだけれど、まあせっかく貸して貰ったのだから……とプレイすることにした。
案の定難しすぎる。
けれどかっこいい。なんて硬派でかっこいいゲームだ、というプレイフィーリングのみを糧になんとか突き進んでいった。
アーマードコア6(以下AC6)は、シリーズ通して豊富なパーツカスタムが可能なロボットゲームだ。
ひとつのミッションが難しくて詰まったとしても、自身の機体パーツを組み直すことで立ち回りや戦略がガラッと変わり、あんなに手こずっていたボスにも急にあっさり勝てたりする。
その為、がむしゃらに同じボスに挑み続けて負け続けるのではなく、一度基地にもどり、冷静に新武器を試してみたり、脚部パーツを替えて立ち回りを変えてみたり、胸部パーツ頑強なものにして持久戦に持ち込んだりなど、いろんな挑み方で再挑戦できる。
レベルアップなどのシステムはない。各パーツは性能に上下がはっきりあるのではなく、それぞれ何かしらの性能がトレードオフの関係性になっている為、機体の組み替え自体にも歯ごたえがある。
それらのおかげか同じミッションの繰り返しでもあまり飽きが来ず、その上ボス機の攻撃パターンも自然と学んでいけるので、しっかりプレイヤースキルと機体構築の思索によって勝利を掴むことができるのだ。
これがべらぼうに気持ちいい。
ところがひとつのボス戦が私のプレイを足止めしていた。
私がコントローラーをおいてから半年以上の期間が空いた。
それから再開を果たしたのがつい先週だったわけである。
わたしをくじけさせたのはチャプター4のミッション「地中探索ー深度2」に潜むボス、エンフォーサーだった。
改めて久々にAC6を触った私は、改めてボコボコにされた。
これはいかんと過去ミッションをおさらいして操作感を思い出す。
そしてそれまで触っていなかったNPCとのタイマン勝負ができるアリーナモードをプレイしてみたりした。そこで私はアリーナモードクリアのご褒美で、機体を若干強化できるシステムにやっと気付いた。
これまで一切この強化を行ってなかった私は今度こそと気を引き締める。
ついでにYouTubeで「初心者が出来ていない基礎の動き」を調べるなどの座学を済まし、いざエンフォーサーに挑む。
なんとか勝てた。
半年のブランクが一気に開けて、そこからは一気にストーリーを進めていくことになる。
あくまでネタバレの無いように書くけれど、この作品は分岐エンディングがあるため、(そしてそのストーリーがあまりに面白いため)楽しんでプレイしていたら自ずと二周三周と巡回することになる。
二周目で大きなショックを受け、すべてを救いたくて挑んだ三周目のエンディングで大きな混乱をくらった私は、とりあえずこのAC6を貸してくれた友人に即座に報告し、通話をすることにした。
私なりのエンディングの解釈や、彼の解釈、そしてこのゲームに数多く仕込まれた小ネタや、過去作通しての設定についてなどいろいろと話を巡らせていった。
この夢中っぷり、興奮っぷりは『デスストランディング』をプレイしたときぶりかもしれない。
AC6を貸してくれた友人にはとにかく感謝しかない。
多分ひとりだったら触らないままだった。
そして借り物じゃなかったら詰みっぱなしだったかも知れない。
621レイブン(主人公のコードネーム)としての濃密な一週間を過ごし、わたしはやっと現実の世界にかえって来れた。
また散歩をして、喫茶店で本を読んで、日記を書いていくなんでもない日々に戻ります。
ちなみに私がAC6をプレイしまくっていた一週間、妻は毎日寝る前に「AC6はどんなかんじ?」と聞いてくれて、私がストーリーの説明やその時々の解釈などを長々と話しても、ノリノリで「そこが黒幕なんちゃうかな」とか「最後にそいつと共闘できたらアツいな」と一緒に考察したりはしゃいだりしてくれた。すごいな。優しすぎる。
あらためてAC6を貸してくれた友人、そして人がやってるゲームの話を一週間聞き続けてくれる妻、ありがとう。

グラタンを構想する。寝言でねむたがる。

土日は妻のお義父さんお義母さんと一緒に昼ご飯を食べた。
おしゃべりをしたり、仕送りの物々を受け取ったりして午後に解散した。
そのあと妻と河原町に出かけて、靴などを一緒に観て帰った。
年末が近い。クリスマスに何を買おうかと相談する時間が楽しい。
私は妻へのプレゼントを準備したので、早く渡したくてそわそわしている。
一年が終わる早さを嘆く声も聞こえたりするが、今私は早くクリスマスになってほしくてたまらない。
今年のクリスマスは平日なため、妻も仕事をして帰ってくる。
ふたりで外食に行くのは休みに入ってからの予定だが、とりあえず24日25日は自宅で私がとっておきの晩ご飯をつくって一緒に食べる予定である。
たっぷり具が入ったデカいグラタンを作ろうかしら。
むかし、妻がグラタン好きだという事を聞いた私は、勘違いをしてバカデカいドリアを作ったことがある。
グラタンとドリアは別の料理である。
簡単に言えば下に米が仕込んであるのがドリアで、そうでないのがグラタンである。
妻にとって全くと言って良いくらい別の料理として認識されていたドリアは、全然妻を喜ばせることができなかった。私は大しょんぼり。からぶった。
今年こそは正真正銘のグラタンをつくってあげたい。
任せな。

平日にはいり、また妻が仕事に行く。
妻は夜寝る前にご飯をたべると胃腸が動きすぎるせいか、寝付きが悪くなるタチだ。
なので最近遅くなる日は会社で晩ご飯をたべて、私が作ったご飯は翌日の朝にもりもり食べてくれる。
昨日は鮭のシチューをつくったが、あまりにおいしくできあがったので、いたずらに妻に勧めまくっていたら、一口だけ食べてくれた。大好評。うれしい。
翌朝妻はしっかりシチューを食べて仕事に出かけていった。うれしい。いっぱい食べてね。
わたしもシチューを食べる。
今日は生協からブロッコリーが届くので、それも具として追加しておこう。
午後には喫茶店に行き、また本を読む。
『わからない彫刻』という、武蔵美が出している彫刻の教科書を読む。
この本は「つくる編」と「みる編」の2冊に分かれていて、多くの彫刻家がそれぞれ親しんだ技法や材質、形式についてレクチャーをしながら作家としての実感を経験則と共に語ってくれるというものだ。
なんて贅沢な教科書だろうか。
「つくる編」は技法の話も多いので、いかにも教科書的な部分も少なくないが、それでも読み物として惹かれる内容だった。(もちろん彫刻の制作をしない人からしたら多少は退屈だろうが)
それを読み終わり、次は「みる編」を読む。
こちらの方では作家はもちろん、批評家や学芸員といった外郭を担う人たちによる寄稿も多くあるので、また全く違う読み味になりそうでワクワクする。
これらを読み終えたら次は最近読んだ彫刻論の中でも引用があった『ありふれたものの変容』を読もうかと思う。
最近読んでいる本は武蔵美慶應の出版から出ている本が多い。
大学がこんなに良い内容の本を出してくれているなんて生徒は恵まれているなと思う。
また外部の人間もこうやってその恩恵を享受できているのだから、出版とはほんとうにありがたいシステムだなと思う。
平日の夜はいつも妻の背中や腰、首をマッサージしながらおしゃべりしてから寝る。
2,30分近くマッサージをしているので、妻の話を聞き終わったら、だいたい私はいつも読んだ本の話や観た映画の話をする。
そこから派生してどんどん私と妻の会話になっていく。
妻は私が本の話をすると、いつも自分の言葉で質問をしたり自分の解釈を投げかけてくれるので、話していてとても楽しい。
マッサージが終わり、眠る前にも少ししゃべるが、ずっとしゃべっていては眠れないので、おしゃべりな妻もどこかのタイミングで「寝よかな」とか「黙ってみるね」と言って静かになり始める。
わたしは妻との会話が楽しいので、ちょっぴり寂しく、名残惜しくも思うのだけれど、妻が穏やかに寝息を立て始めるとなんだか嬉しくなって、私もだんだん眠くなっていくのだ。
寝言で妻が「眠い」と言う。
「寝てますやん」と私がいうと、妻はぐうといびきをかいた。

いい友人ばかり。フォーとチェーを食べる。

先日、神田伯山の講談を見に行った。
神田伯山と言えばいまや売れっ子の講談師でテレビなどの大手マスメディアでもちらちらと目にするほどだが、私にとって神田伯山(知った当時は襲名前で神田松之丞だった)は、“爆笑問題太田とラジオ上でプロレスを繰り返す人”であり、“伊集院光とラジオ上のやりとりで(わりとマジの)喧嘩をした人”であった。
落語は年に一回は必ず聴きに行く週間があるので、馴染みが深かったのだけれど講談はさっぱりだったので結構身構えながら会場に向かった。
劇場で友人と合流する。
母校の大学施設として大型の劇場があり、そこでは本格的な演劇やミュージカルをはじめ、落語や歌舞伎、そしてこうやって講談の公演が頻繁に行われている。
開演時間が始まるまで少し時間が合ったので、大学内のギャラリーでの展示を見る。
後輩作家のUくんがちょうど作品展示をしていた。
ちらっと顔も会わせたので挨拶もする。
開演時間になったので劇場にはいる。
講談はおもっていたよりずっとポップでエンタメだった。(演芸文化なので当然っちゃ当然かも知れないが)
落語はコメディのフィクションだが、講談はどちらかというとドキュメンタリー的な(実話を元にしたノンフィクション寄りの)フィクションである。
伯山は今年の映画『国宝』のヒットから、役者の話を2席披露してくれた。
どちらも熱く、苦しく、粋でかっこいい芸の世界を描いたものだった。
落語の会話劇的な心地よさとはまた違う、語り部分のリズムの良さや、歴史や文化に関する補足的な語り自体の面白さが流れるように入ってくるかと思えば、ピンと張った緊張感で劇場を静まり返して見せたりする。
その緩急にそれぞれ圧倒されている間に2時間ちょっとがあっというまに終わっていった。
大学近くの王将で夕飯を食べながら友人と感動を分かち合う。
その足で少し歩いたところにある銭湯に向かって一風呂浴びる。
講談を一緒に見に行って、同じ解像度で感動を共有できる友人がいることもとても嬉しい。
私の帰宅は見事に遅くなり、帰宅後不機嫌に私の帰りをまつ妻をなだめる羽目になるのだった。
妻は可愛らしくフゴフゴと不機嫌をくすぶらせているのだけれど、漫画に書いたらくちゃくちゃの線が吹き出しに書かれそうな、そんなちょっとコミカルな不機嫌でなんだか可愛い。わたしはついへらへらしてしまってさらに怒らせてしまう。ごめんね。

そして後日、半年ぶりくらいに髪を切った。
割と伸びてしまっていたのだけれど、私は一時期胸くらいまで髪を伸ばしていたので、ちょっと伸びたくらいでは「伸びたな」という意識があまり湧かない。
妻に言われて思い出したかのように髪を切りに行く。
妻とは同じ美容院に通っているので、同日に予約をし、髪を切り終わったら一緒にご飯を食べて帰る。
美容院の近くのベトナム料理屋さんに入る。
最近は妻は会社でご飯を食べてくる日も多かったので、平日に一緒に晩ご飯を食べられるのが嬉しい。
フォーと混ぜご飯を注文して一緒に食べる。
もりもりゴキゲンで食べる妻を観ているのがすきなので、とても楽しい時間。
メインを食べ終わった後にデザートが食べたくなったので、チェーというベトナムのあんみつのような甘味を注文した。
予想以上においしい。
ココナッツミルクに小粒のタピオカとフルーツ、白玉をいれたものだが、これがまたさっぱりしつつ甘くて美味い。
もう一つ追加で注文したりする。
フォーとチェー、また食べたい。

それから平日はまた喫茶店に通って本を読み続けた。
先日読み始めた『彫刻の呼び声』も読み終わり、大変満足する。
彫刻家による彫刻論、批評家による彫刻論を読み終えたので、今度はまた別視点から彫刻を見つめる本を読むことにする。
金井直の『像をうつす』という評論を読む。
彫刻の歴史と並走してきた、“彫刻の写真”を追っていくという一風変わった本だ。
鑑賞方向が定まっている絵画と違い、無限の鑑賞方向を持つ彫刻は、写真で作品記録を残し、それを観るときにどうしても撮影者や撮影環境によって恣意的なものが混ざる。
しかし現物として軽やかに移動することが極めて難しい彫刻は、それを学ぼうとしたときにどうして写真を頼ることにもなる。
その不安定ながら根深い関係性を丁寧に読み解いていく。
これを読み終わったら彫刻の教科書とかを改めて読んでみようか。

茶店ですごしていたら、ちょくちょく友人がマルヤマに来てくれて、おしゃべりをすることになる。
先日は作家のSくんが来てくれて、一緒にコーヒーを飲みながらのんびりと過ごしたり、その後お酒を飲みに行ったりした。
彼はフレスコ画を制作している壁画家であり、ペインターではあるものの非常に専門領域が特殊なため、作家同士の領域意識のなかでも孤独を抱えながら活動を続けているようだ。なんて立派だろうか。
yugeで展示をしてくれたこともあり、思い出話をしたり、壁画と彫刻についての話をしたり、結婚によって得られるもの/失うものについて話したりする。
彼はとてもゆっくり穏やかに会話をしてくれるので、こちらも話していると心が落ち着く感じがする。
私は彼の作品はもちろんだが、一友人として彼のことがわりと好きなんだなと気付いた。

そして今日は友人のYさんが喫茶店に来てくれて、すこし一緒に話したりして過ごした。
会うなり「話したいことが何個かあって、」と話し始めてくれて、なんだか嬉しくなる。
今年聞いていた音楽について、先日見に行った講談について、海外ドラマについてなどなんでもない話を展開していく。
話題としては何でもないことばかりだったが、こういうなんでもない諸々を“話したいこと”として意識の片隅にストックしてくれていたんだなと思うと尚更微笑ましい気持ちになる。こういう友人がいることに感謝しなければなと思う。
この年末年始は早めに実家に帰省して1ヶ月ほどゆっくり過ごすとのことで、まさかの今年最速の「良いお年を」を交わすことになった。
いうていてももう冬まっただ中になってしまった。
ここからあっというまに年末年始になってしまうんだよね。怖いね。
妻とそろそろ年末には何を食べて、年始には何を食べるのかを話し合わないといけない。
記憶の中の妻はだいたいゴキゲンで何かをおいしそうに食べている。
おいしい記憶を極力増やしていきながら、彼女がフゴフゴと不機嫌にならずにすむように務めていきたい。