寒すぎる。
昨日も大概だったが今日ははっきりと冬の始まりを感じる寒さだ。
朝ご飯にパンを食べて、しばらくストレッチをする。
先日読み終わった『哲学以後の芸術とその後』を要所要所読み返す。
付箋を貼っていたところを見返しながらざっくりと読み返していく。
外は小雨が降っているようだった。通りで寒い訳だ。
このままではロクに動けないと思い、靴下をはいて暖かいインナーを着込む。
こうして数時間かけながら外に出られる装備をもぞもぞと装着していく。
最近はあまり散歩らしい散歩ができていない。寒すぎるため。
なのでせめて自転車を往復30分ほど漕いで喫茶店に通うという贅沢な週間が、私の生活にかすかな運動をもたらしてくれている。
自転車を漕ぎながらだんだん身体が温まってくる感覚がある。
それに反して、ハンドルを握る手は風にさらされて、どんどんと冷えていく。
早く喫茶店に着きたくて、よりペダルを強く踏み込む。
喫茶店について『コンテンポラリー・ファインアート』を読む。
コスースの著作集である『哲学以後の芸術とその後』は60年代から90年代にかけてのテキストだったが、本書は80年代の美術に関する批評だ。
名前しかちゃんと知らない作家や、作品写真をみてやっとピンとくる作家、ましてや名前も作品もしらない作家がどんどん出てくる。勉強不足を感じながらも、この膨大な文化を完全に把握できる日が来るとも到底思えないな、と逆に清々しい気持ちにもなってくる。
以前読んだニコラブリオーの『関係性の美学』をからめた批評を目にして、自分がこの批評が俯瞰的にどういったポジションにあり、またどういった評価を得ているのかをほとんど知らなかったことに気付く。批評に対する批評もあるのだから、つくづく果てしないものだなと思う。
本を半分くらい読み進めることができたので、本を閉じる。
ブログを書く。
ポメラを取り出して執筆をする。
このワープロガジェットであるポメラは道具としてとても気に入っているのだけれど、いかんせんもう少しだけでも小さくならないものだろうか。
キーボードのサイズ的にこれ以上小さくしたら快適性が損なわれてしまうのだろうか。(その恩恵かたしかに打鍵感は良い)
けれども、昔のモデルであったような折りたたみキーボードを内蔵しているような形で文庫本サイズで再展開してくれたら私は飛び跳ねてよろこぶのに……とも思う。
喫茶店で暖かいコーヒーを飲んでいたこともあり、すこしだけ熱くなってくる。軽く汗をかく。
私はこうやって暖まりきった身体で店を出るときの、冷たい空気が澄んでいるような感覚がわりと好きだ。
温められた身体に冷たい空気が入ってきて、肺の形がくっきりわかるような感じ。
その感覚を抱きしめながら、今年も冬が始まるのだという覚悟をきゅっと締める。
自転車を漕いで家に帰る。
マジョリティとマイノリティ。私とおまえ。
目を覚ます。部屋干しをしたおかげか空気があまり乾いていない気がする。
先週風邪を引いてからまだすこし痰が絡む日が続いていたけれど、今日は少し快適。
昨日はたくさんのおでんをつくったので、それを温めて朝ご飯にする。
おでんを作るために沢山の練り物をかったけれど、肝心の大根を買い忘れていたので、練り物だらけのおでんになってしまった。
今日は大根を買って帰っておでんに足そうと思う。
天気は良いのだけれど、この時期になると窓から朝日が差し込む時間が短くなってしまったせいか、あまりすっきり起きれない。
洗い物をして、ちょっとのんびりすごす。
ベランダに出てみるとむちゃくちゃ寒い。
昨日は割と日が暖かかった気がするのだけれど、なんでこんなに急に気温が下がるのか。
部屋にもどって上着を着る。
明後日にはゲームの『カービィのエアライダー』が発売される。
告知映像や、体験プレイの実況動画などを眺めながらわくわくする。
今日はこの寒さだと散歩をしたり鴨川でギターを弾いたりするのは厳しいなと判断する。
せめて暖かい格好をして喫茶店まで行く。
先日読み終わった『哲学以後の芸術とその後』の影響でコンテンポラリーアートについての本が読みたくなる。
鞄に『コンテンポラリー・ファインアート 同時代としての美術』を詰め込んで喫茶店まで行く。
序盤をゆっくり読んでいたら友人が喫茶店にくる。
本を閉じて話し始める。
SNS越しの友人関係について話す。
狭い窓越しのコミュニケーションは互いに自身の理想化をかなえながらパフォーマンス的なコミュニケーションをするので、真の理解にはとどかないのではないかという話をする。
けれども、同時に対面でのコミュニケーションでも同様の事が起きている気もする。
付き合い前に一緒に山登りをしろ、付き合ったら結婚の前に同性をしてみろ、という言葉を聞いたことがあるけれど、ほんなら結婚したら何をしたらいいのだろうか?
きっと結婚したら何もしなくて良い。
何もしなくていい人を見つけたら結婚したら良いのだと思う。
また、(現代における)サブカルチャーとは何かという話をする。
マジョリティが手にするのがカルチャーだとして、マイノリティが手にしていたものがサブカルだとざっくり定義されているものの、そんな相対的で曖昧な尺度で現在もアニメや漫画がずっとサブカル扱いされている事への違和感はある。
人はどこにいても、マジョリティの安心感とマイノリティの満足感を両方とも求めてしまう。
せっかく手にしたマイノリティも、どこかに帰属するとあっというまに“そのコミュニティ内でのマジョリティ”になってしまうことも多々ある。
だから人はその内でのマジョリティを抜け出すために、知識や理論武装でさらなる深化を果たして再び自身のマイノリティ化を目指すのかも知れない。
そういった、文化に対する見栄や畏れが文化を文化たらしめている可能性すらある。
本来は個人個人が“個人”というマイノリティであることは間違いないのにもかかわらず、私達はどこかに帰属することでマイノリティというラベルを手に入れようとしてしまう。
なんて虚しいことだろうか。けれどもどうにも仕方ないことのようにも思える。
わたしたちは単なるわたしたちではなく、私とおまえとおまえとおまえである。
何かに頼ることなく、私が私だと思える日、おまえがおまえと思える日はいつかくるのだろうか。
そして同時に、何かに頼ることで、私とおまえが“わたしたち”になることが出来ることも尊く思うのだ。
風邪を引いて治す。美術への眼差しについて。
久しぶりの日記。
と言うのも、先週は週明けから風邪を引いてしまっていたので、ずっと寝込んでいた。
日曜の晩から様子が怪しくなり、薬を飲んだけれど、結局熱があがってしまった。
妻が野菜もりもりのグリーンカレーを作ってくれたり、トローチやゼリー飲料を通販で注文してくれたりしたおかげで、いつもなら4,5日くらい引きずる風邪を二日半くらいで治すことが出来た。
やっぱり食べることって大事だなと実感する。
私と妻は同時に風邪を引いても、彼女は1日で復活し、私は4,5日かかったりする。
生物としての丈夫さを思い知らされる。
風邪がましになってきたら、薬が効いてきたタイミングで一気に家事を終わらせる。
風邪が治ってからは巻き返す思いで目一杯サポートする。
体調もだんだん良くなって、痰と鼻水だけが残る程度になった。
熱も下がってなんとか復活。
妻が帰ってきたあとおそい時間だと、ご飯ではなくフルーツを剥いて軽い腹ごなし程度で過ごしたりもした。
家にリンゴや梨があると嬉しい。
わたしはきっと一人で生活していたら日常の中でフルーツを食べるなんて事しなかっただろうなとも思う。
私は趣味が多い方の人間ではあるので、一人でも勝手に何かをして楽しんでいくとは思うのだけれど、一人では見いだせなかったであろう楽しみや喜びのきっかけを妻から沢山もらっているのだなとたまに気付かされる。
体調がなおってから、作家のJくんといっしょに河川敷に行った。
川辺で石をこんこんと叩く会を開きたいという謎の呼びかけがあったので、私はよろこんで申し出た。
JくんとNくんと私という三人で河川敷に集まり、石を拾う。こつこつと叩く。
石に石をこすりつけてみたりする。石の色が移る。石が滑らかになる。
Jくんがこんこんと石を一定のリズムで叩く。河川敷に中高域の音が鳴り響く。
私もつられておんなじリズムで石をこつこつ鳴らす。
互いにぶつける石のサイズが違うので、音の高さが違う。
リズムが意識の中に溶けていき始めたくらいに、不意に音が途切れる。私の石が砕けてしまったのだ。
だんだん肌寒くなってきて、もう2時間も石を触っていたことに気付く。
3人で喫茶店に行くことにした。
一緒に美術について話す。
美術が大衆においてどう認識されているのかと、この社会で美術にしがみついて生きていくことのジレンマについて話す。
哲学に手を伸ばす術について話す。
やはり私の制作や生活にとっては、レヴィナスがとても大きな存在であることを再確認する。
あたらしくウェブサイトを制作し、複数人でゆるく更新していく構想があることを話す。
Jくんをそれに誘い、解散する。
週末は病院に行き、薬を貰う。自立支援の手続きをするために今月どこかのタイミングで役場に行かないと行けない。忘れないようにする。
妻も久々に休日を一人でぶらぶらしてくるらしい。
妻が帰ってくるタイミングに合わせて、土鍋で肉じゃがを作る。
ジャガイモがえらくほくほくに出来た。
帰ってきた妻と一緒に食べる。
妻の一週間の疲れが溜まりに溜まっているようで、極力労る。
呼ばれていたイベントに顔を出したりする。
WS(ワークショップ)に参加したりする。
美術に関わる様々な活動をする人たちがいるけれど、必ずしも美術を同じまなざしで見つめているわけではないのだな、と当たり前のことに改めて気付かされる。
美術はなにも特別ではないけれど、文化的な構造があり、やわらかくも膨大なルールの上で成り立っている。
突飛で破天荒で自由なだけでは、それは美術とは呼べないなと私は思う。
逆に大らかで奔放で素朴なだけのものも、私は美術と呼びたくないのだと思う。
私は排他的で選民的な意識を育ててしまっているのだろうか。
私はただただそれぞれの作家が見出すもの、もしくは見出されてきたもの、積み上げられてきたものを尊重したいだけなのに、どうしてこうも美術は虐げられ続けるのだろうか。
SNSでも「自由な鑑賞」についての論争が続いている。
すべての文化はその文化圏内での(遊び、もしくはゲームとしての)ルールがあり、それに則って積み上げられたフィクションが実態を成している……と言う事実は割とどの分野でも無意識下に理解されているが、美術に関してはそれらが無視されがちな気がしてならない。
ルールなしの自分勝手な自己表現は美術にはならない。
単なる“制作物”と“美術作品”には案外しっかりと境界線がある。
なので鑑賞者は共犯者たる為に、知識とまでたいそうなものじゃなくても、最低限のゲームルールを理解すべきだと思ってしまう。
そうでなければ、我々はリフティング名人とサッカープレイヤー名手の区別が付かないような素朴さで美術を眺める事になってしまうのではないか。
私はそれと、とてもむなしく、不敬で、軽薄なまなざしだと感じる。
肩書きや場所を手放した今、私はただただ誠実にそれらを見つめていたいと思う。
これ以上持つ事ができないこと。これで既に満たされているということ。
今日は休みの日。妻が家に居る。
朝目を覚ますと、妻がぷりぷりと張り切ってピザを作り始めた。
昨日妻がピザ生地やピザソースを買ってきてくれたのだ。
蓮根とアボカドとチーズを乗せたピザが焼き上がる。
口の中を焼けどしながらはふはふと食べる。美味しい。
妻は思いつきで何かを作って食べる。それがいつも美味しいから凄い。
一人暮らしをしていた頃、伊勢エビを一箱買って、一人で食べきったらしい。
それを聞いたとき「なんて魅力的な人だろうか」と感動したのを覚えている。
食べ終わったら洗い物を私が済ます。
いっしょにゴロゴロする。
妻は昨日出かけていったので、今日はおうちでゆっくりする日。
今日も私は喫茶店に出かけて妻の一人時間をつくる。
家を出る前に、室内がえらく乾燥しているのがわかったので、お茶を沸かしたりしてちょっぴり室内を加湿して置いた。
これで安心。家を出る。
外は雨が降っていたけども、喫茶店までは歩いて15分くらいなのでそこまで気にしない。
妻が見送ってくれる。
傘を差して雨道をあるく。
ポケットラジオを取り出して、イヤホンを付けて歩く。
ちょうど矢野顕子が流れている番組があったので、そのチャンネルに合わせる。
「みのりのあきですよ」を聞きながら歩いて行く。
たしか糸井重里が作詞をした曲だった気がする。
MOTHERシリーズが好きな私は昔、糸井重里のことも敬愛していたけれども、昨今のSNSでの言動を観たりして、すっかりその熱も冷めてしまっている。
ただやっぱりこの時期の彼の仕事は好きだなと再確認する。
彼自身はもしかしたら、この頃から今に至るまでさほどかわっていないのかもしれない。
けれど私の受け取り方や、いろんな姿勢がかわってしまっただけなのだろうなとも思う。
喫茶店に着く。
コーヒーを頼んで本を読む。
今日でコスースを読み切ってしまおうという気持ちで読み進めていたけれど、中々難しい本ではあるので、章ごとに読み進めるスピードにブレがある。
7割くらいは読み進められたが、読み切ることはできなさそうだったので、集中力がとぎれないうちに本を閉じた。
芸術家の内的言語として作品があり、それを外部と接続する行為が批評であるという話、そしてあくまで芸術は芸術のうちにしか存在することはできないという話が自分の中でしっくりくる。
拡張や接続を作家の内部から広げようとすると、必ずどこかで無理が出る。
あくまで作家は内的言語をいかに翻訳し作品として発話するかが制作なのだと思う。
ポメラを出してブログを書く。
ほんとうに今日はご飯をたべて本を読む以外特に何もしていない。
今日は家に帰ったら妻と一緒に晩ご飯をつくってたべて、風呂に入って寝る。
ただそれだけなのに、退屈な予感がしない。
仕事に腕をふるって(過剰に)忙しくしていた頃は、何も予定がない日があると不安で退屈で、なにかミーティングの用事を入れたり、作家の展示に顔を出しに行ったりと必死だったなと思い出す。
今はただそこに流れているだけの日々が愛おしい。
そして私の生活に制作やコミュニケーション、作品鑑賞が消えたわけでもない。時々交わる線として、常に私の横を走り続けている。
以前はその線と交わるときしか、それらが私の中に存在しないような気がして怖かったのだ。
いま私の手のひらの上には少しの生活といっぱいの愛情が入っている。
いろんな事を経て、手のひらの容量を掴む。
これ以上持てないのだという悲哀と、もうすでに満たされているのだという充実をともに思い知った私は、もうどこにでも行ける。
京都の友人と話す。遠くの友人とも話す。
目を覚ますと関節に濁った感覚がある。昨日のお酒だ。
大阪の友人と会いに行く妻を見送る。
昨日は喫茶店、喫茶店、バーをハシゴした。
夕方以降に大学時代の友人と会う予定を建てていたので、それまでマルヤマで本を読むことにした。
コスースの『哲学以後の芸術とその後』を読み進める。
途中で友人がマルヤマに来る。彼女は最近出来た散歩仲間。
なんだかんだだらだら散歩すると言うよりは座ってしゃべっている時間のほうが長かったりするので、散歩仲間と言って良いのか怪しいところではあるのだが、少なくとも良い友人ではある。
少し彼女と話しているとまた別の友人が来た。彼は前の職場の元同僚。
3人になったので、カウンターからテーブル席に移動させて貰う。
ふたりは初対面同士だったので、かるく他己紹介をすまして、なんとなくしゃべっていく。
以前それぞれと話していた話題を掘り起こしてみたりしながら、今日は3人で広げていく。
ムードについて、前髪が司るエゴについて、アイドルについて……etc.
初めて顔をそろえたメンツながら、いろんな話に飛んでいくことが出来て楽しい。
気付けば夕方になってしまったので、私はふたりを喫茶店に残して大学時代の友人のもとへ向かう。
このあとあの友人二人がむちゃくちゃ仲良くなったり、むちゃくちゃ険悪になったりするのだろうかと想像して、またちょっと楽しくなる。
大学時代の友人と別の喫茶店で合流する。おおよそ半年ぶり。なんだかんだ定期的に会っている友人。
とはいえこの半年でわたしの生活スタイルはほぼすべて変わったため、近況報告を色々とする。
大学の一回生の頃からもう10年経つことに驚きを隠せない。
10年以上一緒に居られる友人がいること、そしてここ最近できた友人もいることを共に嬉しく思う。
夜になり別の店に移動して、もう一人同期の友人が合流する。
3人で話しながら、それぞれの生活スタイルの違いや共通点から話がどんどん展開されていく。
家庭について、折りたたみスマホについて、3Dプリンターについて、仕事について、各分野における希少なポジションについて、粘土とPC(あるいは文明の始まりと現在)について……etc.
途中、店内に偶然居合わせた他の同期にも会うことができたので、すこし話す。京都は狭い街だ。
また彼ともゆっくり話がしたい。
ぼちぼち解散して、それぞれ家に帰る。
家に着くと東京の友人達がグループ通話をしていた。
家事をざざっと済ませてその通話に入る。
一緒にゲームをする。
途中で妻が帰ってくる。妻が眠そうにしていたので、しばらくゲームをしたら切り上げて、グループ通話の友人らにもおやすみを伝える。
ピピッと寝る準備を済ませて、妻の背中をマッサージして寝る。
そして今日。
昨日は人と会い続けていたので、今日は家でゆっくりする。
けれども結局本を読もうと思うと家よりも喫茶店の方が集中できる気がしてきたので、今日も喫茶店にいくことにした。
店までの距離分だけだが、やはり身体を動かした方が調子が良い。
店についてコスースを読む。
半分まで読み進めることが出来た。
図版や注釈もあると思うと実際はのこり4割くらいだろうか。
私が制作や企画をしてきた中で、ずっと頭を抱えていたテクストとオブジェクトの関係性について、コスースはとことん突き詰めていく。そしてその時代を共にしたアド・ラインハートやドナルド・ジャッドらの言葉も各所で引用されていくので、当時のヒリヒリした感覚が少しだけ掴める。コスースはすでに芸術は芸術の中にのみ存在し、その再帰化を果たさなければ商品として市場に飲まれることを警告していた。現在はこのありさまである。
私がこねくり回していたものは100年前を起点にずっと繰り返されていたのだ。
本を閉じてブログを書く。
昨日はいろんな友人と話したなとブログを書きながら思い返す。
話す友人がいること、友人と話したいことがあることが嬉しい。
今日も帰ったら妻を待って、晩ご飯を食べる。
なんでもない日々も極力なんでもなさを思い出し反芻する。
そしていつかさっぱり忘れてしまい、このテキストだけが手がかりになって記憶が循環する日が来るのかと思うと今からワクワクする。