その他諸々

その他の走り書き。

高速の合流の様におじさんになる。冬の越し方を思い出す。

連休の後半は家で妻とゆっくり過ごした。
私が朝にホットケーキを焼いたり、逆に妻がチーズホットケーキを焼いてくれたりした。
鯖の味噌煮を作る勢いで、栗ごはんを炊いたりした。
妻が結婚祝いで友人から土鍋をもらったので、それを使って栗ご飯を炊く。
栗を剥くのはむちゃくちゃめんどくさい。
だけど妻は芋栗南京が大好きなので、私は張り切って栗を剥く、剥く。
土鍋で米を炊くと、プラシーボかも知れないけれどなんだかやっぱりおいしい気がする。
じっくり作った鯖の味噌煮と、たっぷりの栗ご飯が仕上がる。ごちそうである。
二日かけて沢山のそれらを食べきる。
ゲーム『エアライダー』もちょくちょくプレイする。楽しい。
なんだかプレイしているところを妻に観て欲しくて、携帯モードで妻の近くにいってわざわざプレイする。
そんなこんなで三連休も終わり、なんでもない平日が戻ってくる。
平日はいつもどおり午前中にすることを済ませたら喫茶店に行く。
『コンテンポラリー・ファインアート』と飯田善国の『見えない彫刻』を読み終わり、『ぺらぺらの彫刻』という彫刻論を読む。
絵画論や写真論を読むのも面白いのだけれど、やっぱり自身の活動領域であった彫刻に関する話の方がしっくりくることが多く、読み味が心地よい。
いまだに(当たり前だが)こういう彫刻に関する本を読むたびに「彫刻で起きていたこととはこういうことだったのかもな」と過去に抱いた感覚を再回収できるので、本当に楽しい。
やはり私は物体がそこにあるという安息、そしてその表面に実る本質たる表情を愛でるのが心底好きなのだと思う。
ふと肩をたたかれて「おつかれ」と声をかけられる。
作家をしている友人がそこに居た。
どうやら偶然後輩作家と二人で打ち合わせにこの喫茶店に来ていたらしい。
少し久しぶりに会えたので、不意に遭遇したこともあってやたら嬉しくなる。
打ち合わせをするというのに無理を言って相席させて貰った。
現代美術の土俵で活動し続けている彼のことをつくづく立派だなと会うたびに思う。
「Yはえらいね」と溢すと「えらくはない!」と譲らない。
私は「えらくなくとも、すごくはあるよ」と食い下がることにした。
彼らの打ち合わせが終わり、どうでもいい雑談が始まる。
我々も30歳近くになってしまった。なので、すこしずつでもおじさんであるという自認を育てていかねばならないという自戒について話す。
たしかに30こえても自認が“お兄さん”なのはちょっとしんどい。
事実オジ、自認ニキはなんとしてでも避けねばならない。
事実オジ、自認オジに私達はならねばならないのだ。
何を当たり前のことを、という話題のようだが、コレが結構厄介である。
事実ニキ、自認オジも背伸びをしたダルさがある。
事実オジになっていくグラデーションに速度を合わせて、自認もしっかりとオジにしていかなければならないのだ。
しかもオジ化は加速しながらやってくる。
高速道路の合流のようなだなと思う。
こちらもグッとオジ化の速度に追いつきながら、追い抜かないように、追突されないように、適切なスピードで合流しなければ事故が起きる。
オジへの合流にはアクセルを踏み込む勇気と、周囲への確認がつきものなのである。
ゆっくり歳をとっていくものだと思っていたけれど、どうやら歳は加速度的にとっていくもののようだ。なんて恐ろしいのだろうか。
友人と別れ、家に帰る。
今日は一人の晩ご飯。連休の反動で少し寂しい。家で鯖を焼いて食べる。
妻が帰ってくる時間に合わせて最寄りのバス停まで迎えに行く。
バスを降りてくる時、妻は私を見つけて小走りで下車してくる。
それがとっても嬉しくて、私は外の寒さを忘れる。
そうか、こうやって冬を越していたのだなと思い出す。

ゲームで時間を忘れる。毎年冬の越し方を忘れる。

木曜日、ニンテンドースイッチから『カービィのエアライダー』が発売された。
日付が変わった瞬間2,3試合プレイして、朝になってからストーリーモードをじっくりプレイした。
このゲームの前作にあたる『カービィのエアライド』は私が小学生低学年の頃にあったゲームだ。
当時の記憶が再生されると同時に、アップデートされた要素要素に逐一感動していく。
エアライド』はゲームキューブの作品だったので、友達と集まってプレイすることはあっても、通信対戦などはできなかった。
いまや最新作では爆速でマッチングして、大人数でわいわいとどつきあいのレースゲームを楽しめる。
こんなにうれしいことがあるか。
大学時代のゲーム友達はまだ本作を買っていない人の方が多いので、またみんなでプレイできるのが楽しみだ。
発売日は『エアライダー』しかしていなかった。
ちょっとやらないといけないことを端に置いてまで『エアライダー』をやり続けてしまった。反省。

翌日、喫茶店で本を読んでいたら友人が隣の席にやってきた。
今読んでいる本について話す。
落雷についての話をする。
誕生日プレゼントについての相談を受ける。
なんでもプレゼントを渡す相手が私にすこし似ているようで、その相談相手に抜擢されたらしい。
色々と考えなから何個も挙げていく内に、最終的に二宮金次郎像を渡すのがベストではないかという話になってしまった。
そんなわけがない。
どこで間違えたのか。
どうか彼がほんまに二宮金次郎像を見繕わないことを祈る。
その後に寄った店で、大学時代の同期の友人とも偶然会う。
一緒にお酒を飲んで久しぶりにじっくりしゃべる。
立派な作家として食っている彼は、話を聞けば聞くほど社会の見え方がまるでちがうような気がした。なんて立派なんだろうか。
しかしいざ懐かしい音楽の話などになると、確実に同じ時代に思春期を過ごした同年代の人間なのだと実感させられる。
よかった、彼もどこか地続きでわたしたちと同じ世界に住んでいた(住んでいる)のだなと安心する。

そしてまた翌日。
休みの日なので夕方まで妻とゆっくり過ごす。
夕方になると妻は友人とご飯をたべに大阪まで出かけていった。
家でゆっくりしてしていようかと思ったけれど、見に行きたかった友人の展示があることを思い出す。
自転車を漕いで出町柳まで行く。
展示を見る。
二人展だったので、作家二人としばらく話す。
展示会場はやけに床がきしむ場所だったので、作品を見て回りながら作家と話そうとすると、床がうるさくて上手くしゃべれない。
立ち止まらないと会話が出来ない。
この要素も作品に組み込めたらよかったなと作家がぼやいていた。
またお茶でもしようと交わして、私は近くの喫茶店に入って本を読む。
気付いたら小一時間くらい本を読み続けてしまっていた。
キリが良いところで本を閉じてブログを書く。
本格的に冬が近づいてきたのを節々で実感する。
毎年どうやって冬を乗り越えていたのか思い出せなくなる。
果たして今年も無事に冬を越せるのだろうか。
山の弱い動物のような不安を抱えながら自転車を漕いで家路に着く。

ペダルを漕いで身体を温める。冷たい空気が肺の輪郭をなぞる。

寒すぎる。
昨日も大概だったが今日ははっきりと冬の始まりを感じる寒さだ。
朝ご飯にパンを食べて、しばらくストレッチをする。
先日読み終わった『哲学以後の芸術とその後』を要所要所読み返す。
付箋を貼っていたところを見返しながらざっくりと読み返していく。
外は小雨が降っているようだった。通りで寒い訳だ。
このままではロクに動けないと思い、靴下をはいて暖かいインナーを着込む。
こうして数時間かけながら外に出られる装備をもぞもぞと装着していく。
最近はあまり散歩らしい散歩ができていない。寒すぎるため。
なのでせめて自転車を往復30分ほど漕いで喫茶店に通うという贅沢な週間が、私の生活にかすかな運動をもたらしてくれている。
自転車を漕ぎながらだんだん身体が温まってくる感覚がある。
それに反して、ハンドルを握る手は風にさらされて、どんどんと冷えていく。
早く喫茶店に着きたくて、よりペダルを強く踏み込む。
茶店について『コンテンポラリー・ファインアート』を読む。
コスースの著作集である『哲学以後の芸術とその後』は60年代から90年代にかけてのテキストだったが、本書は80年代の美術に関する批評だ。
名前しかちゃんと知らない作家や、作品写真をみてやっとピンとくる作家、ましてや名前も作品もしらない作家がどんどん出てくる。勉強不足を感じながらも、この膨大な文化を完全に把握できる日が来るとも到底思えないな、と逆に清々しい気持ちにもなってくる。
以前読んだニコラブリオーの『関係性の美学』をからめた批評を目にして、自分がこの批評が俯瞰的にどういったポジションにあり、またどういった評価を得ているのかをほとんど知らなかったことに気付く。批評に対する批評もあるのだから、つくづく果てしないものだなと思う。
本を半分くらい読み進めることができたので、本を閉じる。
ブログを書く。
ポメラを取り出して執筆をする。
このワープロガジェットであるポメラは道具としてとても気に入っているのだけれど、いかんせんもう少しだけでも小さくならないものだろうか。
キーボードのサイズ的にこれ以上小さくしたら快適性が損なわれてしまうのだろうか。(その恩恵かたしかに打鍵感は良い)
けれども、昔のモデルであったような折りたたみキーボードを内蔵しているような形で文庫本サイズで再展開してくれたら私は飛び跳ねてよろこぶのに……とも思う。
茶店で暖かいコーヒーを飲んでいたこともあり、すこしだけ熱くなってくる。軽く汗をかく。
私はこうやって暖まりきった身体で店を出るときの、冷たい空気が澄んでいるような感覚がわりと好きだ。
温められた身体に冷たい空気が入ってきて、肺の形がくっきりわかるような感じ。
その感覚を抱きしめながら、今年も冬が始まるのだという覚悟をきゅっと締める。
自転車を漕いで家に帰る。

マジョリティとマイノリティ。私とおまえ。

目を覚ます。部屋干しをしたおかげか空気があまり乾いていない気がする。
先週風邪を引いてからまだすこし痰が絡む日が続いていたけれど、今日は少し快適。
昨日はたくさんのおでんをつくったので、それを温めて朝ご飯にする。
おでんを作るために沢山の練り物をかったけれど、肝心の大根を買い忘れていたので、練り物だらけのおでんになってしまった。
今日は大根を買って帰っておでんに足そうと思う。
天気は良いのだけれど、この時期になると窓から朝日が差し込む時間が短くなってしまったせいか、あまりすっきり起きれない。
洗い物をして、ちょっとのんびりすごす。
ベランダに出てみるとむちゃくちゃ寒い。
昨日は割と日が暖かかった気がするのだけれど、なんでこんなに急に気温が下がるのか。
部屋にもどって上着を着る。
明後日にはゲームの『カービィのエアライダー』が発売される。
告知映像や、体験プレイの実況動画などを眺めながらわくわくする。
今日はこの寒さだと散歩をしたり鴨川でギターを弾いたりするのは厳しいなと判断する。
せめて暖かい格好をして喫茶店まで行く。
先日読み終わった『哲学以後の芸術とその後』の影響でコンテンポラリーアートについての本が読みたくなる。
鞄に『コンテンポラリー・ファインアート 同時代としての美術』を詰め込んで喫茶店まで行く。
序盤をゆっくり読んでいたら友人が喫茶店にくる。
本を閉じて話し始める。
SNS越しの友人関係について話す。
狭い窓越しのコミュニケーションは互いに自身の理想化をかなえながらパフォーマンス的なコミュニケーションをするので、真の理解にはとどかないのではないかという話をする。
けれども、同時に対面でのコミュニケーションでも同様の事が起きている気もする。
付き合い前に一緒に山登りをしろ、付き合ったら結婚の前に同性をしてみろ、という言葉を聞いたことがあるけれど、ほんなら結婚したら何をしたらいいのだろうか?
きっと結婚したら何もしなくて良い。
何もしなくていい人を見つけたら結婚したら良いのだと思う。
また、(現代における)サブカルチャーとは何かという話をする。
マジョリティが手にするのがカルチャーだとして、マイノリティが手にしていたものがサブカルだとざっくり定義されているものの、そんな相対的で曖昧な尺度で現在もアニメや漫画がずっとサブカル扱いされている事への違和感はある。
人はどこにいても、マジョリティの安心感とマイノリティの満足感を両方とも求めてしまう。
せっかく手にしたマイノリティも、どこかに帰属するとあっというまに“そのコミュニティ内でのマジョリティ”になってしまうことも多々ある。
だから人はその内でのマジョリティを抜け出すために、知識や理論武装でさらなる深化を果たして再び自身のマイノリティ化を目指すのかも知れない。
そういった、文化に対する見栄や畏れが文化を文化たらしめている可能性すらある。
本来は個人個人が“個人”というマイノリティであることは間違いないのにもかかわらず、私達はどこかに帰属することでマイノリティというラベルを手に入れようとしてしまう。
なんて虚しいことだろうか。けれどもどうにも仕方ないことのようにも思える。
わたしたちは単なるわたしたちではなく、私とおまえとおまえとおまえである。
何かに頼ることなく、私が私だと思える日、おまえがおまえと思える日はいつかくるのだろうか。
そして同時に、何かに頼ることで、私とおまえが“わたしたち”になることが出来ることも尊く思うのだ。

風邪を引いて治す。美術への眼差しについて。

久しぶりの日記。
と言うのも、先週は週明けから風邪を引いてしまっていたので、ずっと寝込んでいた。
日曜の晩から様子が怪しくなり、薬を飲んだけれど、結局熱があがってしまった。
妻が野菜もりもりのグリーンカレーを作ってくれたり、トローチやゼリー飲料を通販で注文してくれたりしたおかげで、いつもなら4,5日くらい引きずる風邪を二日半くらいで治すことが出来た。
やっぱり食べることって大事だなと実感する。
私と妻は同時に風邪を引いても、彼女は1日で復活し、私は4,5日かかったりする。
生物としての丈夫さを思い知らされる。
風邪がましになってきたら、薬が効いてきたタイミングで一気に家事を終わらせる。
風邪が治ってからは巻き返す思いで目一杯サポートする。
体調もだんだん良くなって、痰と鼻水だけが残る程度になった。
熱も下がってなんとか復活。
妻が帰ってきたあとおそい時間だと、ご飯ではなくフルーツを剥いて軽い腹ごなし程度で過ごしたりもした。
家にリンゴや梨があると嬉しい。
わたしはきっと一人で生活していたら日常の中でフルーツを食べるなんて事しなかっただろうなとも思う。
私は趣味が多い方の人間ではあるので、一人でも勝手に何かをして楽しんでいくとは思うのだけれど、一人では見いだせなかったであろう楽しみや喜びのきっかけを妻から沢山もらっているのだなとたまに気付かされる。
体調がなおってから、作家のJくんといっしょに河川敷に行った。
川辺で石をこんこんと叩く会を開きたいという謎の呼びかけがあったので、私はよろこんで申し出た。
JくんとNくんと私という三人で河川敷に集まり、石を拾う。こつこつと叩く。
石に石をこすりつけてみたりする。石の色が移る。石が滑らかになる。
Jくんがこんこんと石を一定のリズムで叩く。河川敷に中高域の音が鳴り響く。
私もつられておんなじリズムで石をこつこつ鳴らす。
互いにぶつける石のサイズが違うので、音の高さが違う。
リズムが意識の中に溶けていき始めたくらいに、不意に音が途切れる。私の石が砕けてしまったのだ。
だんだん肌寒くなってきて、もう2時間も石を触っていたことに気付く。
3人で喫茶店に行くことにした。
一緒に美術について話す。
美術が大衆においてどう認識されているのかと、この社会で美術にしがみついて生きていくことのジレンマについて話す。
哲学に手を伸ばす術について話す。
やはり私の制作や生活にとっては、レヴィナスがとても大きな存在であることを再確認する。
あたらしくウェブサイトを制作し、複数人でゆるく更新していく構想があることを話す。
Jくんをそれに誘い、解散する。
週末は病院に行き、薬を貰う。自立支援の手続きをするために今月どこかのタイミングで役場に行かないと行けない。忘れないようにする。
妻も久々に休日を一人でぶらぶらしてくるらしい。
妻が帰ってくるタイミングに合わせて、土鍋で肉じゃがを作る。
ジャガイモがえらくほくほくに出来た。
帰ってきた妻と一緒に食べる。
妻の一週間の疲れが溜まりに溜まっているようで、極力労る。
呼ばれていたイベントに顔を出したりする。
WS(ワークショップ)に参加したりする。
美術に関わる様々な活動をする人たちがいるけれど、必ずしも美術を同じまなざしで見つめているわけではないのだな、と当たり前のことに改めて気付かされる。
美術はなにも特別ではないけれど、文化的な構造があり、やわらかくも膨大なルールの上で成り立っている。
突飛で破天荒で自由なだけでは、それは美術とは呼べないなと私は思う。
逆に大らかで奔放で素朴なだけのものも、私は美術と呼びたくないのだと思う。
私は排他的で選民的な意識を育ててしまっているのだろうか。
私はただただそれぞれの作家が見出すもの、もしくは見出されてきたもの、積み上げられてきたものを尊重したいだけなのに、どうしてこうも美術は虐げられ続けるのだろうか。
SNSでも「自由な鑑賞」についての論争が続いている。
すべての文化はその文化圏内での(遊び、もしくはゲームとしての)ルールがあり、それに則って積み上げられたフィクションが実態を成している……と言う事実は割とどの分野でも無意識下に理解されているが、美術に関してはそれらが無視されがちな気がしてならない。
ルールなしの自分勝手な自己表現は美術にはならない。
単なる“制作物”と“美術作品”には案外しっかりと境界線がある。
なので鑑賞者は共犯者たる為に、知識とまでたいそうなものじゃなくても、最低限のゲームルールを理解すべきだと思ってしまう。
そうでなければ、我々はリフティング名人とサッカープレイヤー名手の区別が付かないような素朴さで美術を眺める事になってしまうのではないか。
私はそれと、とてもむなしく、不敬で、軽薄なまなざしだと感じる。
肩書きや場所を手放した今、私はただただ誠実にそれらを見つめていたいと思う。