その他諸々

その他の走り書き。

作家の彫刻論を読む。批評家の彫刻論を読む。

土曜日は妻に一人でゆっくり過ごす時間を作るために、日曜日は妻が大阪まで出かけているため、私は喫茶店にまた入り浸っていた。
この土日は妻と過ごすことと喫茶店で本を読むことしかほとんどしていない。
家に帰ると妻がいる、という事以外さほど平日と変わらないと言えば変わらないのだけれども、私にとっては大きな違いである。
土日で『ぺらぺらの彫刻』という武蔵美出版からでている彫刻論を読み終えた。
彫刻を「被覆の彫刻」というキーワードと共に再考していくという本だが、図版も多く、各章の展開も明解でとにかく読みやすく面白い内容だった。
ブロンズ像や大理石像のようなものから、布を使ったインスタレーションのような彫刻、空き家の床や柱の表面を掘り尽くすというプロジェクト規模の作品まで幅広く取り上げながら、彫刻の新たな本質を彫り起こしていく。
特に印象に残っているのは、「すべての彫刻には空洞がある」という解釈を展開していく章だった。
ブロンズ像やFRP(強化ガラスファイバー樹脂)による鋳造や型抜きの技法における物理的な空洞はもちろんのこと、木彫や石彫のようなソリッドな素材による彫刻も中心部にはまだ彫刻家の手に触れていない未開の部分が内包されているという、いわば広義での“空洞”である。
この感覚がえらくしっくりきた。
私が昔制作していた街の会話を盗み聴きして制作した彫刻作品は、まさにその張りぼてのイメージによって彫刻像を自立させようと試みるものだった。
わたしはやっぱり彫刻をやりたかったのだなと再確認できた気がする。
また、「彫刻が目指すのはリアル(現実)ではなくリアリティ(現実らしさ)である」という解釈も自身の関心にとても響いた。
これも同じ制作の中で、会話と会話劇について考えることがあり、まさに意識していたことであった。わたしが彫刻と名乗り、彫刻としてのロジックを組んでいたものの、どこかやりきれているのか不安なところが無かったわけではない。そしてもちろん不十分な構成であったという反省もある。
この本をがっつりと制作をしていた当時に手に取るべきだったと強く後悔する。
けれどこうやって今手に取ることで、過去の制作を再び回収できたようなきがして嬉しくもある。

週が明けて月曜日になる。
昨晩つくった豚汁をあたためて食べる。
今日はすこしあたたかい。
郵便物を受け取ったりしながら、午前中は家事をしたり、ジャンプを読んだりする。
ジャンプって全作品読もうとすると意外と時間がかかるな、と思い出す。
午後になったら喫茶店に向かう。
外に出て、やっぱり今日はあたたかいなと再確認する。
きっと反動のようにグッと寒くなるんだろうな。
茶店に着いたら次に読む本『彫刻の呼び声』を開く。
彫刻を専門領域に批評をしてきた峯村敏明の批評/随筆集。
ここ最近ずっと読んでいたのは彫刻家たちによる言葉だったので、ここで一旦距離をとって批評家による彫刻論に触れてみたくなったため手に取った。
ドナルドジャッドを起点とした現代彫刻がどう展開されていったのかを丁寧に追ってくれるので、復習にもなって助かる。
半分くらい読み進めたので本を閉じてブログを書く。
来年くらいから稼働させる予定の新しいウェブサイトにむけて、ブログの日記以外にも記事を書く準備を始めようと思う。
せっかくスペースを閉じたのに忙しく動かしては仕方が無いので、ゆっくりと稼働していくことをポリシーにのんびりやっていきたい。
今日は家に帰ったら掃除をして、豚汁をあたためて妻の帰りを待つ。
土鍋、大活躍しています。
先日妻が土鍋に「土鍋のどんちゃん」と名前を付けた。愛着が湧く。
どんちゃん、これからもよろしくたのむぜ。

繰り返し本を読む。日々を極力繰り返す。

昨日はひたすら家で本を読んでいた。
『ぺらぺらの彫刻』という彫刻論がおもしろすぎてずっと読んでしまう。
パンを食べて本を読む。
ミロを飲んで本を読む。
洗い物をして本を読む。
飯を作って本を読む。
風呂に入って本を読む。
洗濯物をして本を読む。
本、おもろすぎる。
評論以外にも漫画も読む。
『カグラバチ』、おもろすぎる。
漫画以外にも詩も読む。
谷川俊太郎、かっこよすぎる。
妻が帰ってくる。
妻、かわいすぎる。
すかすかの密度の一日に目一杯の充実を覚えながら寝る。

そして今日は午前中はゆっくりすごす(ずっとゆっくり過ごしているではないか)
昼間に野菜炒めをつくって食べる。
午後になったら久々に北大路までサイクリングする。
鴨川沿いを走って行くのが心地良い。
自転車を漕いでいたら身体が温まってきて、コートの前を開ける。
昔住んでいた街をまた通る。定期的に確認したくなる。
走り飽きてきたので、河原町方面まで下っていく。
今度は鴨川の東側の河川敷を走って行く。
いつもの喫茶店につくと友人がカウンターにいたので隣に座る。
今読んでいる本についての話をする。
彼が温めているプレゼント大作戦の進捗を聞く。
奥田民生くるりの話をする。
茶店のお姉さんも加勢してくれる。
ライブに行きたくなる。先月の西部講堂のライブは久々にデカい音で音楽を聴けてよかったなと思い出す。
気付いたらもう週末なので、なにかおいしいものをどさっと作って妻の帰りを待とうかと思う。
夜寝る前に、妻の背中をマッサージしながら仕事の愚痴を聞いたり、私が読んでいる本についての話をしたりする時間が好きだ。
ゆっくりと二人の会話をしながら、妻の疲れをちょっとでもほぐす。
これの繰り返し。できればずっとこれを繰り返し続けていたいし、今の自分はそれ以上のことを特に望んでいないなと気付く。
これをできる限り繰り返す。

高速の合流の様におじさんになる。冬の越し方を思い出す。

連休の後半は家で妻とゆっくり過ごした。
私が朝にホットケーキを焼いたり、逆に妻がチーズホットケーキを焼いてくれたりした。
鯖の味噌煮を作る勢いで、栗ごはんを炊いたりした。
妻が結婚祝いで友人から土鍋をもらったので、それを使って栗ご飯を炊く。
栗を剥くのはむちゃくちゃめんどくさい。
だけど妻は芋栗南京が大好きなので、私は張り切って栗を剥く、剥く。
土鍋で米を炊くと、プラシーボかも知れないけれどなんだかやっぱりおいしい気がする。
じっくり作った鯖の味噌煮と、たっぷりの栗ご飯が仕上がる。ごちそうである。
二日かけて沢山のそれらを食べきる。
ゲーム『エアライダー』もちょくちょくプレイする。楽しい。
なんだかプレイしているところを妻に観て欲しくて、携帯モードで妻の近くにいってわざわざプレイする。
そんなこんなで三連休も終わり、なんでもない平日が戻ってくる。
平日はいつもどおり午前中にすることを済ませたら喫茶店に行く。
『コンテンポラリー・ファインアート』と飯田善国の『見えない彫刻』を読み終わり、『ぺらぺらの彫刻』という彫刻論を読む。
絵画論や写真論を読むのも面白いのだけれど、やっぱり自身の活動領域であった彫刻に関する話の方がしっくりくることが多く、読み味が心地よい。
いまだに(当たり前だが)こういう彫刻に関する本を読むたびに「彫刻で起きていたこととはこういうことだったのかもな」と過去に抱いた感覚を再回収できるので、本当に楽しい。
やはり私は物体がそこにあるという安息、そしてその表面に実る本質たる表情を愛でるのが心底好きなのだと思う。
ふと肩をたたかれて「おつかれ」と声をかけられる。
作家をしている友人がそこに居た。
どうやら偶然後輩作家と二人で打ち合わせにこの喫茶店に来ていたらしい。
少し久しぶりに会えたので、不意に遭遇したこともあってやたら嬉しくなる。
打ち合わせをするというのに無理を言って相席させて貰った。
現代美術の土俵で活動し続けている彼のことをつくづく立派だなと会うたびに思う。
「Yはえらいね」と溢すと「えらくはない!」と譲らない。
私は「えらくなくとも、すごくはあるよ」と食い下がることにした。
彼らの打ち合わせが終わり、どうでもいい雑談が始まる。
我々も30歳近くになってしまった。なので、すこしずつでもおじさんであるという自認を育てていかねばならないという自戒について話す。
たしかに30こえても自認が“お兄さん”なのはちょっとしんどい。
事実オジ、自認ニキはなんとしてでも避けねばならない。
事実オジ、自認オジに私達はならねばならないのだ。
何を当たり前のことを、という話題のようだが、コレが結構厄介である。
事実ニキ、自認オジも背伸びをしたダルさがある。
事実オジになっていくグラデーションに速度を合わせて、自認もしっかりとオジにしていかなければならないのだ。
しかもオジ化は加速しながらやってくる。
高速道路の合流のようなだなと思う。
こちらもグッとオジ化の速度に追いつきながら、追い抜かないように、追突されないように、適切なスピードで合流しなければ事故が起きる。
オジへの合流にはアクセルを踏み込む勇気と、周囲への確認がつきものなのである。
ゆっくり歳をとっていくものだと思っていたけれど、どうやら歳は加速度的にとっていくもののようだ。なんて恐ろしいのだろうか。
友人と別れ、家に帰る。
今日は一人の晩ご飯。連休の反動で少し寂しい。家で鯖を焼いて食べる。
妻が帰ってくる時間に合わせて最寄りのバス停まで迎えに行く。
バスを降りてくる時、妻は私を見つけて小走りで下車してくる。
それがとっても嬉しくて、私は外の寒さを忘れる。
そうか、こうやって冬を越していたのだなと思い出す。

ゲームで時間を忘れる。毎年冬の越し方を忘れる。

木曜日、ニンテンドースイッチから『カービィのエアライダー』が発売された。
日付が変わった瞬間2,3試合プレイして、朝になってからストーリーモードをじっくりプレイした。
このゲームの前作にあたる『カービィのエアライド』は私が小学生低学年の頃にあったゲームだ。
当時の記憶が再生されると同時に、アップデートされた要素要素に逐一感動していく。
エアライド』はゲームキューブの作品だったので、友達と集まってプレイすることはあっても、通信対戦などはできなかった。
いまや最新作では爆速でマッチングして、大人数でわいわいとどつきあいのレースゲームを楽しめる。
こんなにうれしいことがあるか。
大学時代のゲーム友達はまだ本作を買っていない人の方が多いので、またみんなでプレイできるのが楽しみだ。
発売日は『エアライダー』しかしていなかった。
ちょっとやらないといけないことを端に置いてまで『エアライダー』をやり続けてしまった。反省。

翌日、喫茶店で本を読んでいたら友人が隣の席にやってきた。
今読んでいる本について話す。
落雷についての話をする。
誕生日プレゼントについての相談を受ける。
なんでもプレゼントを渡す相手が私にすこし似ているようで、その相談相手に抜擢されたらしい。
色々と考えなから何個も挙げていく内に、最終的に二宮金次郎像を渡すのがベストではないかという話になってしまった。
そんなわけがない。
どこで間違えたのか。
どうか彼がほんまに二宮金次郎像を見繕わないことを祈る。
その後に寄った店で、大学時代の同期の友人とも偶然会う。
一緒にお酒を飲んで久しぶりにじっくりしゃべる。
立派な作家として食っている彼は、話を聞けば聞くほど社会の見え方がまるでちがうような気がした。なんて立派なんだろうか。
しかしいざ懐かしい音楽の話などになると、確実に同じ時代に思春期を過ごした同年代の人間なのだと実感させられる。
よかった、彼もどこか地続きでわたしたちと同じ世界に住んでいた(住んでいる)のだなと安心する。

そしてまた翌日。
休みの日なので夕方まで妻とゆっくり過ごす。
夕方になると妻は友人とご飯をたべに大阪まで出かけていった。
家でゆっくりしてしていようかと思ったけれど、見に行きたかった友人の展示があることを思い出す。
自転車を漕いで出町柳まで行く。
展示を見る。
二人展だったので、作家二人としばらく話す。
展示会場はやけに床がきしむ場所だったので、作品を見て回りながら作家と話そうとすると、床がうるさくて上手くしゃべれない。
立ち止まらないと会話が出来ない。
この要素も作品に組み込めたらよかったなと作家がぼやいていた。
またお茶でもしようと交わして、私は近くの喫茶店に入って本を読む。
気付いたら小一時間くらい本を読み続けてしまっていた。
キリが良いところで本を閉じてブログを書く。
本格的に冬が近づいてきたのを節々で実感する。
毎年どうやって冬を乗り越えていたのか思い出せなくなる。
果たして今年も無事に冬を越せるのだろうか。
山の弱い動物のような不安を抱えながら自転車を漕いで家路に着く。

ペダルを漕いで身体を温める。冷たい空気が肺の輪郭をなぞる。

寒すぎる。
昨日も大概だったが今日ははっきりと冬の始まりを感じる寒さだ。
朝ご飯にパンを食べて、しばらくストレッチをする。
先日読み終わった『哲学以後の芸術とその後』を要所要所読み返す。
付箋を貼っていたところを見返しながらざっくりと読み返していく。
外は小雨が降っているようだった。通りで寒い訳だ。
このままではロクに動けないと思い、靴下をはいて暖かいインナーを着込む。
こうして数時間かけながら外に出られる装備をもぞもぞと装着していく。
最近はあまり散歩らしい散歩ができていない。寒すぎるため。
なのでせめて自転車を往復30分ほど漕いで喫茶店に通うという贅沢な週間が、私の生活にかすかな運動をもたらしてくれている。
自転車を漕ぎながらだんだん身体が温まってくる感覚がある。
それに反して、ハンドルを握る手は風にさらされて、どんどんと冷えていく。
早く喫茶店に着きたくて、よりペダルを強く踏み込む。
茶店について『コンテンポラリー・ファインアート』を読む。
コスースの著作集である『哲学以後の芸術とその後』は60年代から90年代にかけてのテキストだったが、本書は80年代の美術に関する批評だ。
名前しかちゃんと知らない作家や、作品写真をみてやっとピンとくる作家、ましてや名前も作品もしらない作家がどんどん出てくる。勉強不足を感じながらも、この膨大な文化を完全に把握できる日が来るとも到底思えないな、と逆に清々しい気持ちにもなってくる。
以前読んだニコラブリオーの『関係性の美学』をからめた批評を目にして、自分がこの批評が俯瞰的にどういったポジションにあり、またどういった評価を得ているのかをほとんど知らなかったことに気付く。批評に対する批評もあるのだから、つくづく果てしないものだなと思う。
本を半分くらい読み進めることができたので、本を閉じる。
ブログを書く。
ポメラを取り出して執筆をする。
このワープロガジェットであるポメラは道具としてとても気に入っているのだけれど、いかんせんもう少しだけでも小さくならないものだろうか。
キーボードのサイズ的にこれ以上小さくしたら快適性が損なわれてしまうのだろうか。(その恩恵かたしかに打鍵感は良い)
けれども、昔のモデルであったような折りたたみキーボードを内蔵しているような形で文庫本サイズで再展開してくれたら私は飛び跳ねてよろこぶのに……とも思う。
茶店で暖かいコーヒーを飲んでいたこともあり、すこしだけ熱くなってくる。軽く汗をかく。
私はこうやって暖まりきった身体で店を出るときの、冷たい空気が澄んでいるような感覚がわりと好きだ。
温められた身体に冷たい空気が入ってきて、肺の形がくっきりわかるような感じ。
その感覚を抱きしめながら、今年も冬が始まるのだという覚悟をきゅっと締める。
自転車を漕いで家に帰る。