その他諸々

その他の走り書き。

一週間アーマードコア6しかやっていない私。一週間ずっとアーマードコアの話を聞かされる可哀想な妻。

この一週間、ひたすら『アーマードコア6』をやっていた。
面白すぎた。喫茶店にいく習慣も途切れるくらいにズブズブにアーマードコアをしていた。
1年以上前に友人から「ほんとうにいつでもいいから、いつかプレイしてくれ」と変な頼み文句で貸して貰ったゲームだ。
制作会社のフロムソフトウェアのゲームは高難易度かつ、考察の余地が多いストーリーテリングが有名なため、なんだか触り始めるのには中々ハードルが高かったりしたのだけれど、まあせっかく貸して貰ったのだから……とプレイすることにした。
案の定難しすぎる。
けれどかっこいい。なんて硬派でかっこいいゲームだ、というプレイフィーリングのみを糧になんとか突き進んでいった。
アーマードコア6(以下AC6)は、シリーズ通して豊富なパーツカスタムが可能なロボットゲームだ。
ひとつのミッションが難しくて詰まったとしても、自身の機体パーツを組み直すことで立ち回りや戦略がガラッと変わり、あんなに手こずっていたボスにも急にあっさり勝てたりする。
その為、がむしゃらに同じボスに挑み続けて負け続けるのではなく、一度基地にもどり、冷静に新武器を試してみたり、脚部パーツを替えて立ち回りを変えてみたり、胸部パーツ頑強なものにして持久戦に持ち込んだりなど、いろんな挑み方で再挑戦できる。
レベルアップなどのシステムはない。各パーツは性能に上下がはっきりあるのではなく、それぞれ何かしらの性能がトレードオフの関係性になっている為、機体の組み替え自体にも歯ごたえがある。
それらのおかげか同じミッションの繰り返しでもあまり飽きが来ず、その上ボス機の攻撃パターンも自然と学んでいけるので、しっかりプレイヤースキルと機体構築の思索によって勝利を掴むことができるのだ。
これがべらぼうに気持ちいい。
ところがひとつのボス戦が私のプレイを足止めしていた。
私がコントローラーをおいてから半年以上の期間が空いた。
それから再開を果たしたのがつい先週だったわけである。
わたしをくじけさせたのはチャプター4のミッション「地中探索ー深度2」に潜むボス、エンフォーサーだった。
改めて久々にAC6を触った私は、改めてボコボコにされた。
これはいかんと過去ミッションをおさらいして操作感を思い出す。
そしてそれまで触っていなかったNPCとのタイマン勝負ができるアリーナモードをプレイしてみたりした。そこで私はアリーナモードクリアのご褒美で、機体を若干強化できるシステムにやっと気付いた。
これまで一切この強化を行ってなかった私は今度こそと気を引き締める。
ついでにYouTubeで「初心者が出来ていない基礎の動き」を調べるなどの座学を済まし、いざエンフォーサーに挑む。
なんとか勝てた。
半年のブランクが一気に開けて、そこからは一気にストーリーを進めていくことになる。
あくまでネタバレの無いように書くけれど、この作品は分岐エンディングがあるため、(そしてそのストーリーがあまりに面白いため)楽しんでプレイしていたら自ずと二周三周と巡回することになる。
二周目で大きなショックを受け、すべてを救いたくて挑んだ三周目のエンディングで大きな混乱をくらった私は、とりあえずこのAC6を貸してくれた友人に即座に報告し、通話をすることにした。
私なりのエンディングの解釈や、彼の解釈、そしてこのゲームに数多く仕込まれた小ネタや、過去作通しての設定についてなどいろいろと話を巡らせていった。
この夢中っぷり、興奮っぷりは『デスストランディング』をプレイしたときぶりかもしれない。
AC6を貸してくれた友人にはとにかく感謝しかない。
多分ひとりだったら触らないままだった。
そして借り物じゃなかったら詰みっぱなしだったかも知れない。
621レイブン(主人公のコードネーム)としての濃密な一週間を過ごし、わたしはやっと現実の世界にかえって来れた。
また散歩をして、喫茶店で本を読んで、日記を書いていくなんでもない日々に戻ります。
ちなみに私がAC6をプレイしまくっていた一週間、妻は毎日寝る前に「AC6はどんなかんじ?」と聞いてくれて、私がストーリーの説明やその時々の解釈などを長々と話しても、ノリノリで「そこが黒幕なんちゃうかな」とか「最後にそいつと共闘できたらアツいな」と一緒に考察したりはしゃいだりしてくれた。すごいな。優しすぎる。
あらためてAC6を貸してくれた友人、そして人がやってるゲームの話を一週間聞き続けてくれる妻、ありがとう。

グラタンを構想する。寝言でねむたがる。

土日は妻のお義父さんお義母さんと一緒に昼ご飯を食べた。
おしゃべりをしたり、仕送りの物々を受け取ったりして午後に解散した。
そのあと妻と河原町に出かけて、靴などを一緒に観て帰った。
年末が近い。クリスマスに何を買おうかと相談する時間が楽しい。
私は妻へのプレゼントを準備したので、早く渡したくてそわそわしている。
一年が終わる早さを嘆く声も聞こえたりするが、今私は早くクリスマスになってほしくてたまらない。
今年のクリスマスは平日なため、妻も仕事をして帰ってくる。
ふたりで外食に行くのは休みに入ってからの予定だが、とりあえず24日25日は自宅で私がとっておきの晩ご飯をつくって一緒に食べる予定である。
たっぷり具が入ったデカいグラタンを作ろうかしら。
むかし、妻がグラタン好きだという事を聞いた私は、勘違いをしてバカデカいドリアを作ったことがある。
グラタンとドリアは別の料理である。
簡単に言えば下に米が仕込んであるのがドリアで、そうでないのがグラタンである。
妻にとって全くと言って良いくらい別の料理として認識されていたドリアは、全然妻を喜ばせることができなかった。私は大しょんぼり。からぶった。
今年こそは正真正銘のグラタンをつくってあげたい。
任せな。

平日にはいり、また妻が仕事に行く。
妻は夜寝る前にご飯をたべると胃腸が動きすぎるせいか、寝付きが悪くなるタチだ。
なので最近遅くなる日は会社で晩ご飯をたべて、私が作ったご飯は翌日の朝にもりもり食べてくれる。
昨日は鮭のシチューをつくったが、あまりにおいしくできあがったので、いたずらに妻に勧めまくっていたら、一口だけ食べてくれた。大好評。うれしい。
翌朝妻はしっかりシチューを食べて仕事に出かけていった。うれしい。いっぱい食べてね。
わたしもシチューを食べる。
今日は生協からブロッコリーが届くので、それも具として追加しておこう。
午後には喫茶店に行き、また本を読む。
『わからない彫刻』という、武蔵美が出している彫刻の教科書を読む。
この本は「つくる編」と「みる編」の2冊に分かれていて、多くの彫刻家がそれぞれ親しんだ技法や材質、形式についてレクチャーをしながら作家としての実感を経験則と共に語ってくれるというものだ。
なんて贅沢な教科書だろうか。
「つくる編」は技法の話も多いので、いかにも教科書的な部分も少なくないが、それでも読み物として惹かれる内容だった。(もちろん彫刻の制作をしない人からしたら多少は退屈だろうが)
それを読み終わり、次は「みる編」を読む。
こちらの方では作家はもちろん、批評家や学芸員といった外郭を担う人たちによる寄稿も多くあるので、また全く違う読み味になりそうでワクワクする。
これらを読み終えたら次は最近読んだ彫刻論の中でも引用があった『ありふれたものの変容』を読もうかと思う。
最近読んでいる本は武蔵美慶應の出版から出ている本が多い。
大学がこんなに良い内容の本を出してくれているなんて生徒は恵まれているなと思う。
また外部の人間もこうやってその恩恵を享受できているのだから、出版とはほんとうにありがたいシステムだなと思う。
平日の夜はいつも妻の背中や腰、首をマッサージしながらおしゃべりしてから寝る。
2,30分近くマッサージをしているので、妻の話を聞き終わったら、だいたい私はいつも読んだ本の話や観た映画の話をする。
そこから派生してどんどん私と妻の会話になっていく。
妻は私が本の話をすると、いつも自分の言葉で質問をしたり自分の解釈を投げかけてくれるので、話していてとても楽しい。
マッサージが終わり、眠る前にも少ししゃべるが、ずっとしゃべっていては眠れないので、おしゃべりな妻もどこかのタイミングで「寝よかな」とか「黙ってみるね」と言って静かになり始める。
わたしは妻との会話が楽しいので、ちょっぴり寂しく、名残惜しくも思うのだけれど、妻が穏やかに寝息を立て始めるとなんだか嬉しくなって、私もだんだん眠くなっていくのだ。
寝言で妻が「眠い」と言う。
「寝てますやん」と私がいうと、妻はぐうといびきをかいた。

いい友人ばかり。フォーとチェーを食べる。

先日、神田伯山の講談を見に行った。
神田伯山と言えばいまや売れっ子の講談師でテレビなどの大手マスメディアでもちらちらと目にするほどだが、私にとって神田伯山(知った当時は襲名前で神田松之丞だった)は、“爆笑問題太田とラジオ上でプロレスを繰り返す人”であり、“伊集院光とラジオ上のやりとりで(わりとマジの)喧嘩をした人”であった。
落語は年に一回は必ず聴きに行く週間があるので、馴染みが深かったのだけれど講談はさっぱりだったので結構身構えながら会場に向かった。
劇場で友人と合流する。
母校の大学施設として大型の劇場があり、そこでは本格的な演劇やミュージカルをはじめ、落語や歌舞伎、そしてこうやって講談の公演が頻繁に行われている。
開演時間が始まるまで少し時間が合ったので、大学内のギャラリーでの展示を見る。
後輩作家のUくんがちょうど作品展示をしていた。
ちらっと顔も会わせたので挨拶もする。
開演時間になったので劇場にはいる。
講談はおもっていたよりずっとポップでエンタメだった。(演芸文化なので当然っちゃ当然かも知れないが)
落語はコメディのフィクションだが、講談はどちらかというとドキュメンタリー的な(実話を元にしたノンフィクション寄りの)フィクションである。
伯山は今年の映画『国宝』のヒットから、役者の話を2席披露してくれた。
どちらも熱く、苦しく、粋でかっこいい芸の世界を描いたものだった。
落語の会話劇的な心地よさとはまた違う、語り部分のリズムの良さや、歴史や文化に関する補足的な語り自体の面白さが流れるように入ってくるかと思えば、ピンと張った緊張感で劇場を静まり返して見せたりする。
その緩急にそれぞれ圧倒されている間に2時間ちょっとがあっというまに終わっていった。
大学近くの王将で夕飯を食べながら友人と感動を分かち合う。
その足で少し歩いたところにある銭湯に向かって一風呂浴びる。
講談を一緒に見に行って、同じ解像度で感動を共有できる友人がいることもとても嬉しい。
私の帰宅は見事に遅くなり、帰宅後不機嫌に私の帰りをまつ妻をなだめる羽目になるのだった。
妻は可愛らしくフゴフゴと不機嫌をくすぶらせているのだけれど、漫画に書いたらくちゃくちゃの線が吹き出しに書かれそうな、そんなちょっとコミカルな不機嫌でなんだか可愛い。わたしはついへらへらしてしまってさらに怒らせてしまう。ごめんね。

そして後日、半年ぶりくらいに髪を切った。
割と伸びてしまっていたのだけれど、私は一時期胸くらいまで髪を伸ばしていたので、ちょっと伸びたくらいでは「伸びたな」という意識があまり湧かない。
妻に言われて思い出したかのように髪を切りに行く。
妻とは同じ美容院に通っているので、同日に予約をし、髪を切り終わったら一緒にご飯を食べて帰る。
美容院の近くのベトナム料理屋さんに入る。
最近は妻は会社でご飯を食べてくる日も多かったので、平日に一緒に晩ご飯を食べられるのが嬉しい。
フォーと混ぜご飯を注文して一緒に食べる。
もりもりゴキゲンで食べる妻を観ているのがすきなので、とても楽しい時間。
メインを食べ終わった後にデザートが食べたくなったので、チェーというベトナムのあんみつのような甘味を注文した。
予想以上においしい。
ココナッツミルクに小粒のタピオカとフルーツ、白玉をいれたものだが、これがまたさっぱりしつつ甘くて美味い。
もう一つ追加で注文したりする。
フォーとチェー、また食べたい。

それから平日はまた喫茶店に通って本を読み続けた。
先日読み始めた『彫刻の呼び声』も読み終わり、大変満足する。
彫刻家による彫刻論、批評家による彫刻論を読み終えたので、今度はまた別視点から彫刻を見つめる本を読むことにする。
金井直の『像をうつす』という評論を読む。
彫刻の歴史と並走してきた、“彫刻の写真”を追っていくという一風変わった本だ。
鑑賞方向が定まっている絵画と違い、無限の鑑賞方向を持つ彫刻は、写真で作品記録を残し、それを観るときにどうしても撮影者や撮影環境によって恣意的なものが混ざる。
しかし現物として軽やかに移動することが極めて難しい彫刻は、それを学ぼうとしたときにどうして写真を頼ることにもなる。
その不安定ながら根深い関係性を丁寧に読み解いていく。
これを読み終わったら彫刻の教科書とかを改めて読んでみようか。

茶店ですごしていたら、ちょくちょく友人がマルヤマに来てくれて、おしゃべりをすることになる。
先日は作家のSくんが来てくれて、一緒にコーヒーを飲みながらのんびりと過ごしたり、その後お酒を飲みに行ったりした。
彼はフレスコ画を制作している壁画家であり、ペインターではあるものの非常に専門領域が特殊なため、作家同士の領域意識のなかでも孤独を抱えながら活動を続けているようだ。なんて立派だろうか。
yugeで展示をしてくれたこともあり、思い出話をしたり、壁画と彫刻についての話をしたり、結婚によって得られるもの/失うものについて話したりする。
彼はとてもゆっくり穏やかに会話をしてくれるので、こちらも話していると心が落ち着く感じがする。
私は彼の作品はもちろんだが、一友人として彼のことがわりと好きなんだなと気付いた。

そして今日は友人のYさんが喫茶店に来てくれて、すこし一緒に話したりして過ごした。
会うなり「話したいことが何個かあって、」と話し始めてくれて、なんだか嬉しくなる。
今年聞いていた音楽について、先日見に行った講談について、海外ドラマについてなどなんでもない話を展開していく。
話題としては何でもないことばかりだったが、こういうなんでもない諸々を“話したいこと”として意識の片隅にストックしてくれていたんだなと思うと尚更微笑ましい気持ちになる。こういう友人がいることに感謝しなければなと思う。
この年末年始は早めに実家に帰省して1ヶ月ほどゆっくり過ごすとのことで、まさかの今年最速の「良いお年を」を交わすことになった。
いうていてももう冬まっただ中になってしまった。
ここからあっというまに年末年始になってしまうんだよね。怖いね。
妻とそろそろ年末には何を食べて、年始には何を食べるのかを話し合わないといけない。
記憶の中の妻はだいたいゴキゲンで何かをおいしそうに食べている。
おいしい記憶を極力増やしていきながら、彼女がフゴフゴと不機嫌にならずにすむように務めていきたい。

作家の彫刻論を読む。批評家の彫刻論を読む。

土曜日は妻に一人でゆっくり過ごす時間を作るために、日曜日は妻が大阪まで出かけているため、私は喫茶店にまた入り浸っていた。
この土日は妻と過ごすことと喫茶店で本を読むことしかほとんどしていない。
家に帰ると妻がいる、という事以外さほど平日と変わらないと言えば変わらないのだけれども、私にとっては大きな違いである。
土日で『ぺらぺらの彫刻』という武蔵美出版からでている彫刻論を読み終えた。
彫刻を「被覆の彫刻」というキーワードと共に再考していくという本だが、図版も多く、各章の展開も明解でとにかく読みやすく面白い内容だった。
ブロンズ像や大理石像のようなものから、布を使ったインスタレーションのような彫刻、空き家の床や柱の表面を掘り尽くすというプロジェクト規模の作品まで幅広く取り上げながら、彫刻の新たな本質を彫り起こしていく。
特に印象に残っているのは、「すべての彫刻には空洞がある」という解釈を展開していく章だった。
ブロンズ像やFRP(強化ガラスファイバー樹脂)による鋳造や型抜きの技法における物理的な空洞はもちろんのこと、木彫や石彫のようなソリッドな素材による彫刻も中心部にはまだ彫刻家の手に触れていない未開の部分が内包されているという、いわば広義での“空洞”である。
この感覚がえらくしっくりきた。
私が昔制作していた街の会話を盗み聴きして制作した彫刻作品は、まさにその張りぼてのイメージによって彫刻像を自立させようと試みるものだった。
わたしはやっぱり彫刻をやりたかったのだなと再確認できた気がする。
また、「彫刻が目指すのはリアル(現実)ではなくリアリティ(現実らしさ)である」という解釈も自身の関心にとても響いた。
これも同じ制作の中で、会話と会話劇について考えることがあり、まさに意識していたことであった。わたしが彫刻と名乗り、彫刻としてのロジックを組んでいたものの、どこかやりきれているのか不安なところが無かったわけではない。そしてもちろん不十分な構成であったという反省もある。
この本をがっつりと制作をしていた当時に手に取るべきだったと強く後悔する。
けれどこうやって今手に取ることで、過去の制作を再び回収できたようなきがして嬉しくもある。

週が明けて月曜日になる。
昨晩つくった豚汁をあたためて食べる。
今日はすこしあたたかい。
郵便物を受け取ったりしながら、午前中は家事をしたり、ジャンプを読んだりする。
ジャンプって全作品読もうとすると意外と時間がかかるな、と思い出す。
午後になったら喫茶店に向かう。
外に出て、やっぱり今日はあたたかいなと再確認する。
きっと反動のようにグッと寒くなるんだろうな。
茶店に着いたら次に読む本『彫刻の呼び声』を開く。
彫刻を専門領域に批評をしてきた峯村敏明の批評/随筆集。
ここ最近ずっと読んでいたのは彫刻家たちによる言葉だったので、ここで一旦距離をとって批評家による彫刻論に触れてみたくなったため手に取った。
ドナルドジャッドを起点とした現代彫刻がどう展開されていったのかを丁寧に追ってくれるので、復習にもなって助かる。
半分くらい読み進めたので本を閉じてブログを書く。
来年くらいから稼働させる予定の新しいウェブサイトにむけて、ブログの日記以外にも記事を書く準備を始めようと思う。
せっかくスペースを閉じたのに忙しく動かしては仕方が無いので、ゆっくりと稼働していくことをポリシーにのんびりやっていきたい。
今日は家に帰ったら掃除をして、豚汁をあたためて妻の帰りを待つ。
土鍋、大活躍しています。
先日妻が土鍋に「土鍋のどんちゃん」と名前を付けた。愛着が湧く。
どんちゃん、これからもよろしくたのむぜ。

繰り返し本を読む。日々を極力繰り返す。

昨日はひたすら家で本を読んでいた。
『ぺらぺらの彫刻』という彫刻論がおもしろすぎてずっと読んでしまう。
パンを食べて本を読む。
ミロを飲んで本を読む。
洗い物をして本を読む。
飯を作って本を読む。
風呂に入って本を読む。
洗濯物をして本を読む。
本、おもろすぎる。
評論以外にも漫画も読む。
『カグラバチ』、おもろすぎる。
漫画以外にも詩も読む。
谷川俊太郎、かっこよすぎる。
妻が帰ってくる。
妻、かわいすぎる。
すかすかの密度の一日に目一杯の充実を覚えながら寝る。

そして今日は午前中はゆっくりすごす(ずっとゆっくり過ごしているではないか)
昼間に野菜炒めをつくって食べる。
午後になったら久々に北大路までサイクリングする。
鴨川沿いを走って行くのが心地良い。
自転車を漕いでいたら身体が温まってきて、コートの前を開ける。
昔住んでいた街をまた通る。定期的に確認したくなる。
走り飽きてきたので、河原町方面まで下っていく。
今度は鴨川の東側の河川敷を走って行く。
いつもの喫茶店につくと友人がカウンターにいたので隣に座る。
今読んでいる本についての話をする。
彼が温めているプレゼント大作戦の進捗を聞く。
奥田民生くるりの話をする。
茶店のお姉さんも加勢してくれる。
ライブに行きたくなる。先月の西部講堂のライブは久々にデカい音で音楽を聴けてよかったなと思い出す。
気付いたらもう週末なので、なにかおいしいものをどさっと作って妻の帰りを待とうかと思う。
夜寝る前に、妻の背中をマッサージしながら仕事の愚痴を聞いたり、私が読んでいる本についての話をしたりする時間が好きだ。
ゆっくりと二人の会話をしながら、妻の疲れをちょっとでもほぐす。
これの繰り返し。できればずっとこれを繰り返し続けていたいし、今の自分はそれ以上のことを特に望んでいないなと気付く。
これをできる限り繰り返す。