今日は休みの日。妻が家に居る。
朝目を覚ますと、妻がぷりぷりと張り切ってピザを作り始めた。
昨日妻がピザ生地やピザソースを買ってきてくれたのだ。
蓮根とアボカドとチーズを乗せたピザが焼き上がる。
口の中を焼けどしながらはふはふと食べる。美味しい。
妻は思いつきで何かを作って食べる。それがいつも美味しいから凄い。
一人暮らしをしていた頃、伊勢エビを一箱買って、一人で食べきったらしい。
それを聞いたとき「なんて魅力的な人だろうか」と感動したのを覚えている。
食べ終わったら洗い物を私が済ます。
いっしょにゴロゴロする。
妻は昨日出かけていったので、今日はおうちでゆっくりする日。
今日も私は喫茶店に出かけて妻の一人時間をつくる。
家を出る前に、室内がえらく乾燥しているのがわかったので、お茶を沸かしたりしてちょっぴり室内を加湿して置いた。
これで安心。家を出る。
外は雨が降っていたけども、喫茶店までは歩いて15分くらいなのでそこまで気にしない。
妻が見送ってくれる。
傘を差して雨道をあるく。
ポケットラジオを取り出して、イヤホンを付けて歩く。
ちょうど矢野顕子が流れている番組があったので、そのチャンネルに合わせる。
「みのりのあきですよ」を聞きながら歩いて行く。
たしか糸井重里が作詞をした曲だった気がする。
MOTHERシリーズが好きな私は昔、糸井重里のことも敬愛していたけれども、昨今のSNSでの言動を観たりして、すっかりその熱も冷めてしまっている。
ただやっぱりこの時期の彼の仕事は好きだなと再確認する。
彼自身はもしかしたら、この頃から今に至るまでさほどかわっていないのかもしれない。
けれど私の受け取り方や、いろんな姿勢がかわってしまっただけなのだろうなとも思う。
喫茶店に着く。
コーヒーを頼んで本を読む。
今日でコスースを読み切ってしまおうという気持ちで読み進めていたけれど、中々難しい本ではあるので、章ごとに読み進めるスピードにブレがある。
7割くらいは読み進められたが、読み切ることはできなさそうだったので、集中力がとぎれないうちに本を閉じた。
芸術家の内的言語として作品があり、それを外部と接続する行為が批評であるという話、そしてあくまで芸術は芸術のうちにしか存在することはできないという話が自分の中でしっくりくる。
拡張や接続を作家の内部から広げようとすると、必ずどこかで無理が出る。
あくまで作家は内的言語をいかに翻訳し作品として発話するかが制作なのだと思う。
ポメラを出してブログを書く。
ほんとうに今日はご飯をたべて本を読む以外特に何もしていない。
今日は家に帰ったら妻と一緒に晩ご飯をつくってたべて、風呂に入って寝る。
ただそれだけなのに、退屈な予感がしない。
仕事に腕をふるって(過剰に)忙しくしていた頃は、何も予定がない日があると不安で退屈で、なにかミーティングの用事を入れたり、作家の展示に顔を出しに行ったりと必死だったなと思い出す。
今はただそこに流れているだけの日々が愛おしい。
そして私の生活に制作やコミュニケーション、作品鑑賞が消えたわけでもない。時々交わる線として、常に私の横を走り続けている。
以前はその線と交わるときしか、それらが私の中に存在しないような気がして怖かったのだ。
いま私の手のひらの上には少しの生活といっぱいの愛情が入っている。
いろんな事を経て、手のひらの容量を掴む。
これ以上持てないのだという悲哀と、もうすでに満たされているのだという充実をともに思い知った私は、もうどこにでも行ける。